頼昌星氏という名前をご存じない人もいるだろう。新中国建国後最大規模の汚職事件と言われた「遠華密輸事件」の主犯とされる人物で、カナダ・バンクーバーで難民申請をし、却下され続けている。
遠華とは彼が総裁を務めた企業集団「遠華集団」から取った名で、密輸事件はアモイを本拠地とするこの貿易会社が舞台となった。この会社は1994年に創設。不正に得た金額が96〜99年にかけて少なくとも530億元(800億元という説も1000億元という説も)に上る官ぐるみの関税脱税事件である。
密輸といっても、酒やたばこみたいな可愛いものだけではない。外車や石油製品といった大物を軍艦に護送させ、ごっそり密輸するといったスケールだ。石油製品については、当時中国で使用される石油の25%がこのルートで国内に入って来たと言われ、この事件の摘発後にガソリンが値上がりした、というほどだった。
役人や軍人を接待する場所として通称「紅楼」と呼ばれた赤茶色の7階建のビルが用意された。その中で、党の幹部や高級官僚や軍人は選りすぐりの美女の"特別接待"を受け、その美女らとのあられもない姿を盗撮し、協力要請を引き出す材料にしていたと言われる。
帰国すれば死刑にされるか、殺害される
この事件発覚後、1000人以上の福建省、アモイ市、中央、軍の高官らが関わったとして取り調べを受け、うち20人が死刑、または執行猶予付き死刑判決を受けた。事件捜査の指揮をしていた李紀周・公安次官を筆頭にアモイ市党委副書記、アモイ税関長、アモイ副市長などアモイ市幹部(いずれも当時)など、軒並み死刑か執行猶予付きの判決を受けた。
一方、主犯の頼氏は香港パスポートを持っており香港から家族とともにバンクーバーに逃げおおせた。中国はカナダに彼を引き渡せと言い続けてきたが、カナダ政府は引き渡せば彼が死刑は免れないと思うと、なかなか引き渡せずにいた。頼は帰国すれば死刑にされるかあるいは獄中で殺害されるとして、難民申請を続けてきた。
私が北京に記者として赴任した2002年は、カナダで移民法違反で逮捕された頼氏が中国に送還されるのか、されないのか、一番もめていた頃である。当時のクレティエン首相は人道的立場もあって、送還拒否の姿勢を示したが、その後何度か送還問題が蒸し返されている。
問題が蒸し返されるときは決まって、胡錦濤氏と上海閥との権力闘争が激化したときである。例えば、胡氏が上海閥のプリンスと呼ばれた陳良宇・前上海市党委書記を汚職の名のもとに潰した時期の2006年秋ごろである。
確実に失脚する人間は10人以上いる
頼氏が12年もカナダにいられたのは、彼が中国に送還してくれるなとカナダ政府に申請し続けたこともあるが、中国にも頼氏に帰って来てほしくない人たちが結構いるからだ。頼氏が中国で再度取り調べを受けて、知っていることを洗いざらい吐いてしまえば、中央委員クラス以上で確実に失脚する人間は10人以上いる、と言われている。
その1人が政治局常務委員の賈慶林・全国政治協商会議主席だ。
賈慶林氏は元福建省党委書記。96年、陳希同事件(江沢民氏の政治闘争を背景とする汚職事件で、当時の陳希同・北京市長が免職、有罪となった)で空白となった北京市長の椅子に、江沢民氏に引っ張られて座った。
その妻の林幼芳氏は元福建省外国貿易局党委書記で、北京に来てからは北京の不動産業界の顔役でもある。遠華事件発覚当時、この賈慶林夫妻が事件の黒幕、との噂もあったが、江氏がもみ消した、と言われていた。
遠華事件では、軍部が深く関与していたことが暴露され、当時の軍の重鎮であった劉華清氏らの力を削ぐことになり、江氏の軍掌握に利用されたという。汚職摘発は政争とセットになっているものなのだ。
江沢民氏の政治的命数が完全に尽きた
遠華事件がまさに進行していた当時、福建省副書記を務めていたのは、来年秋には胡錦濤氏の後をついで党中央総書記および国家主席の地位に就くと言われている習近平氏である。党中央紀律委員会書記の政治局常務委員、賀国強氏は97年から福建省長を務めていた。いずれも江氏の腹心の上海閥メンバーである。
主要関係者が死刑になった今なお事件の真相を知り、その証拠も持っているのが頼氏だ。この人物が帰国し証言すれば、この3人は何らかの影響を受けるはずだと言われている。江沢民氏はじめ上海閥にとっては、本音のところでは、頼氏が秘密を守ってくれるのであれば、永遠にカナダにとどまってもらって一向に構わないはずである。
逆に頼氏に戻ってきてほしいのは、江氏の政敵である。陳良宇事件で徹底的に上海閥をつぶそうとしたにも関わらず、徹底しきれなかった胡氏は、だから2006年にカナダ政府に水面下で働き掛けて頼氏送還話を蒸し返した、と当時は言われていた。しかし、司法の元締めである周永康氏、賀国強氏ともに江沢民派であり、胡錦濤氏も状況を思うままには動かせなかった、ということになる。
来年秋に第18回党大会を控え、次期中央指導者の人事がこれから佳境を迎えようとしている時期に、頼氏が送還されたことは、まず1つのことを示しているだろう。江沢民氏の政治的命数が完全に尽きているという点だ。そして、その結果、習近平氏の地位が盤石でなくなってきたかもしれない、という指摘もある。
香港の蘋果日報紙は、北京筋の話として、胡錦濤氏は4月に江沢民氏が危篤になったという情報を受けて、早くもカナダ政府に対し、頼氏の送還について、死刑にしないことを約束した上で、水面下で働き掛けていた、と報じた。さらに頼氏の帰国によって行った犯罪の全貌が明かされれば、「習近平氏は少なくとも政治責任を問われることになるだろう」と論評している。
"山を叩いて虎を震えさせる"作用
在米の華人政治評論家である陳破空氏は、「胡錦濤氏にとっては少なくとも"山を叩いて虎を震えさせる"作用がある」と語り、政治的駆け引きの材料だと見ている。
おそらくは頼氏は、送還されたなら死刑を回避してもらった代償に、賈慶林氏らに上海閥に不利な証言を胡錦濤氏側に提供するかもしれない。だが、それは公開されずに、次期中央指導者グループの人選や序列を決める上での切り札の1つとなるだろう。
以前に陳氏が米国筋からの情報として私に語ったところによれば、習近平氏が浙江省党委書記に昇進した時、致命的な汚職関与の証拠は見つからなかった、と判断が下されていたという。つまり、胡氏は習氏については今のところ、その弱点を握っていないとか。
習氏は慎重な人物らしく、事件後は慎ましやかな暮らしをアピールし、党内の人間関係においても敵を作らないように心がけてきた。しかし、中国の地方官僚機構の性質を鑑みると、遠華事件ほどの大規模汚職について当時の省幹部がまったく認知していなかったとは考えにくい。賈氏と習氏が福建省時代、非常に緊密な関係であったことは周知の事実だ。
頼氏が何らかの情報をもっていれば、それを切り札に、習氏に揺さぶりをかけることができるし、たとえ頼氏も何も証拠を持っていなくても、持っているふりをすることで駆け引きができる。「ターゲットは習近平氏だ」と陳氏は見る。
もっとも江沢民派の本当の実力者は、「太子党」(2世政治家集団)の代表であり、現役を引退しながらも政界・経済界に太いパイプを持つ曾慶紅氏だとも言われる。だから、江氏の影響力が衰えても、習氏を立場を変えることは難しい、という意見もある。だが、例えば、胡錦濤氏が目をかけている内モンゴル自治区党委書記の胡春華氏を習近平氏の後継ポジションにつけさせるかどうかくらいの駆け引きはできるのではないだろうか。
14人は権力闘争の生贄
中国では官僚汚職というのは、ある意味、常態である。庶民の味方として根強い人気のある温家宝首相でさえ、その息子や妻の汚職問題は公然の秘密としてささやかれてきた。比較的クリーンと言われてきた胡錦濤国家主席も、その息子の胡海峰氏が経営する企業がある種の利権にあずかっていることは否定できない。
また、「打黒唱紅」という汚職撲滅と毛沢東礼賛をセットにした政治キャンペーンで最近、存在感をにわかに高めている薄煕来・重慶市党委書記も、大連市党委書記や遼寧省省長時代に汚職の噂があった。
中国官僚が当然の権利のようにあずかるこれら利権は、日本の司法の基準で言えば、すべて汚職と言っていいが、中国の高級官僚の汚職が事件として表面化するのは、司法が健全に働いた結果ではなく権力闘争が背景にある。
そう考えると、遠華事件で死刑が執行された14人は、法に裁かれた犯罪者というよりは権力闘争の生贄と言うべきか。この事件の主犯の頼氏が、中央指導者らの命運を握る情報を切り札に生き抜いてきたのを見れば、一番罪深い人間ではあるが、ある意味あっぱれと思わずにはいられない。
ここまで生き抜いたのだから、あとは中国で不自然な獄中死などしないように、願うばかりである。
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