2011年8月9日火曜日

名経営者管仲

 管仲がそのような力を発揮した事例をいくつか、『管子』の中から拾ってみよう。

【ケース1】米価平準の計

 ある年斉の国内で、西部は水害に遭って米価が暴騰し、東部は豊作で暴落し、東西で実に10倍も格差がついた。これをならすにはどうするか。

 管仲が実施したのは新税である。しかも新税は米で納めさせることとする。すると、西部の税負担は東部の10分の1となり、東部には大量の安い米が集まることとなる。これを西部に送ってその飢餓を救うのである。

 ここでの管仲流のポイントは、米を強制的に供出させるのでなく、自然に安い米が集まってくるように仕掛けを構築するという点である。これなら納税者も大きな負担感を味わうことなく、一部はむしろ得したような気分となったであろう。

【ケース2】権威換金の計

 周王に挨拶に行くのに、覇王としてそれなりの手土産がいる。その財源をどう捻出するか。

 管仲が考案したのは、斉の特産物である玉璧を諸侯が周室に朝貢する際に献上せよと、周王から諸侯に布告させることである。周王の布告の後、諸侯は争って玉璧を斉から買い求めざるを得なくなり、その結果、覇王たる桓公は諸侯に数倍する貢物を持って周王に朝見することができたのである。これは権威を金に換える計略である。

 管仲はブランド化戦略を考えていたといってよい。セレブの誰々が使っているというようなやり方と似ている。

【ケース3】経済戦争の計

 隣国魯にある梁の村は戦略上大事な位置にあるので、何とかこれを支配下におきたい。なお、魯梁は厚絹の産地である。

 管仲はまず桓公に、厚絹の服を着、臣下や人民にもそれを奨励し、原料はすべて魯梁から輸入させることとした。すると魯梁の村は厚絹産業が一大ブームになって、人民は農耕を放棄して厚絹作りに熱中した。管仲はそれが行き渡った頃合を見計らって、今度は桓公に臣下や人民に対し薄絹の着用を義務づけさせ、かつ魯梁からの輸入を禁止した。こうなると魯梁の人民は一挙に農作に転じることもできず、食糧価格は暴騰して餓死者が続出した。こうして三年を経て魯梁は斉の属国となった。

 植民地をモノカルチャーに縛りつけ、その生殺与奪の権を握るようなものである。

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